明治村にいきました。③

明治村にいきました。③

明治村内には、結婚式ができる教会が数か所あります。
5丁目51番地にあります聖ザビエル天主堂もそのひとつです。その中でも一番人気の、聖ザビエル天主堂に行きました。中に入りますとステンドグラスとグラスからこぼれる光が下までふりそそぎます。自然光の中での結婚式と思うとなかなかいいものです。こちらの教会は、1890年5月1日に献堂され、あの社会の教科書で有名な、フランシスコザビエルを記念して作られました。キリスト信者であった、大工の棟梁である、横田彦左衛門が施行しました。

天井をみるとなんというかわかりませんが、とても手の込んだ作りで、建築のこともさっぱりわからない私。しかし、美しく天井までもが威厳を放つかのようです。
木造建築の美しさは木の木目調であると私は思う。長い月日をかさね、雨風を受けてきたその色には言い表すことができない。できることならここからの景色を椅子に座りながら、イエスキリストに悩みを聞いてもらいながらこの場で座って時間を費やしてもいいだろう。視覚を上にあげるとなんとも素敵なステンドグラスの青、赤、緑、とにかく色がなんともはえる。
私たちがいったのが、2月26日、教会の中はクリスマスのリースが飾られており中央、奥部の
ステンドグラスの下には,聖職者の像の前にはひときわ目に入る大きなリースがありました。
どうやら12月から当分の間はクリスマスリースが飾られているようです。

入って、左には聖キリストを抱くマリア像。
こちらに展示してあるステンドグラスは移築前のバラ窓が展示してあります。てっきりあそこのステンドグラスの大きさが分かるように展示してあるのかとおもってました。どうやら違うようです。しかし、大きい…

ステンドグラスがオルガンにうつってとてもきれいでした。

続いては4丁目50番地半田東湯(あずまゆ)です。こちらは愛知県半田市から移設された大衆銭湯です。知多半島のさき海にめんする漁港亀崎にあったものです。
古来、日本には銭湯では、湯屋と風呂の二つの形式がありました。
湯屋は浴槽にお湯を張って中に入る今の形で、風呂は蒸し風呂の形式である。いまの形式になったのは、蒸し風呂は場所をとるため多くの客を入れることができないので今の浴槽での、風呂になったようである。蒸し風呂はいまでいうサウナだろうと思う。
このころの日本の大衆銭湯は脱衣所は男子、女子と別々だが、江戸時代などの風呂屋は、公衆浴場とよばれ混浴でした。風紀が乱れるという理由で分けろと禁止令がでましたが経済的に難しいという事でそのまま混浴の風呂屋が営業しておりました。明治新政府の取り締まりがあり全滅するまでつづきました。
料金表大人2銭とある。多分、今でいう1銭が100円くらいなので、大人200円くらい。そうおもうと100年以上たっているのだがそんなに料金が高くなっていないのを感じます。

江戸時代の女性は髪を洗う頻度は月に1~2度でした。明治時代の女性も髪は結っていて髪が長くお湯を大量につかうので頻繁に髪をあらうことができなかったのです。そのために桶にため髪を洗っていました。
湯屋には一階が銭湯、二階は男性専用の休憩場がありました。もともと湯女(ゆな)がいてサービスを行う座敷でした。時代とともに湯女がいなくなり二階の座敷は男性客は碁を打ったり将棋を指したりと楽しむためのスペースになり、女性は風呂から出るとすぐに帰っていきました。

外にはきつねうどんの屋台があります。お風呂から出た後にいただくのかしら?風呂から出たら私ならビンのコーヒー牛乳が飲みたいですね。うどんじゃないなぁ~

余談ですが、幕末日本の混浴浴場に驚いた人物がいますいったい誰でしょう?







答えペリー提督  黒船来航で日本中を驚かせたのですが、ペリーは混浴文化をみて驚きます。それだけ衝撃的なことだったのでしょうね。「日本人は道徳心に優れているのに混浴しているのを見ると道徳心をうたがってしまう」と日記に残しています。

私たちが行った時期が2月末で閉館時間が短く4時に終わるのですが、時間配分を考えずに行動してしまいまして、他を見る時間が無くなってしまいました。
次回はもう少し考えて回ります。

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